昭和48年04月22日 朝の御理解



 御神訓 一、「出産の時、よかり物によかるより、神に心を任せよかれよ。」

 出産の時よかり物、よりかかる物と云う事ですね。もうそれこそ青竹を握り割る程しの力がいる、何かにこう縋るとこう言われておる。そういう意味の事でしょう。よかり物と云うのは依り掛かる物により掛かってと云うのではなくて、神様に心を任せてよかれよと。是は出産と云う事だけではなくて、いわゆるおかげの出産と云う大変な真理がこの中にあると思うです。所謂おかげの出産お徳の出産。
 おかげが産みなされる時、又はお徳が産みなされる時、そこん時にですねよかり物によかったんでは、神様一心に縋らなければいけん。神様一心の信心をさせて貰わなければ、神に心任せよかれよ、云うなら神様にお任せすると云う事。又の御理解に十分の徳を受け様と思えば、ままよと云う心になれよとこう仰るそれです。充分の徳を受けようと思えばままよと云う心。人に頼るな。物に縋るな、他によかりものによかるな。
 頼りにするのは神様一心じゃ。神様に心任せきっての信心、それからおかげが生まれて來る、お徳が生まれて來る。お互い信心させて頂いて、今日も平穏無事であったと云う事は広大なおかげである。けれども、その平穏無事だけを祈る事が信心ではない。平坦な道を歩かせて貰って、それで高められると云う事では決してない。いよいよ急に高められる為には、それこそ急な坂もやはりよじ登らなければならない。
 又常日頃少しはつま坂上がりぐらいの所の坂、少し位は爪先坂上がりの所の道を歩いておれば何時の間にか高められておる。皆さんの朝参りなんかてのはそうだと思うですね。朝参りの修行と云うのは、もう何時の間にか高められておる。少しは眠い少しはきついけれども、これは何時の間にか高められておる。そういう中にもそんならやはり降る事もあれば、照る事もある。そういう降るとか照るとかと言った様な時でもです、神様は特別のおかげを下さろうとする前に、御試練と云うかねえ。
 教祖様も御晩年の頃、参って來る信者氏子に対して必ず仰っておられたと云う事は「用心しなされや。信心が進んで参りますと、必ず神様のお試しが有りますぞ。」と云う意味の事を仰っておられたそうです。私共信心が高められて、高められて行くと云う事。高められて行けば行く程です、信心が分かって来れば分かって来る程、やはり神様のお試しがありますぞと言う事になる。その神様のお試しで落第すると又元の所、そのお試しに合格することに依って又一段と上へ登る事が出来る。
 そういう時でもです、いわゆる心任せてとこう言うておられる。出産と云う事は決して楽な事とは思われない。そう言ういよいよ出産と云う様な時には、やはり陣痛がある。そういう時にです、誰に頼り彼に縋ると云った様な事ではね、力も付かないし本当のおかげを頂く事は出来ない。おかげと云う事はね、金光様の御信心で云う、おかげと云うのはどういう事かと云うとです、天地の親神様が私共氏子任せになって下さると云う道なんです。まあ、云うならばです。
 大宇宙が小宇宙である所の、私共に現れて下さると云うおかげなんです。是は先日私は或本で見せて頂いたんですけれども、大宇宙が小宇宙に現れると云う事は、是は哲学でそこ迄は、哲学の言葉だそうですね。大宇宙がね小宇宙の私共人間に現れて下さる。昨日からもお話聞いて頂きました様に、大宇宙にはそれこそ一糸乱れぬ天地の運行と云うものが有っておる。太陽の周囲を地球が自転しながら回っておる。その地球の周囲を又月が回っておる。そこに一分一厘の狂いもない秩序正しい働きと云う物があっておる。
 ですからそういう働きが、私共が住まわせて頂いておる此の地球の中にも、外だけではない、私共の中にも有って居ると。それを教祖様は一つの情感を持って説かれたんですねえ。どういう情感かと云うと親であり子であるという情感。ですから、あの何と申しますかね、哲学的に分かったと云うだけではね、もう本当に親なればこそ、神様なればこそと云った様な情感の伴うたおかげにはなって来ないです。
 この辺の道理を知っただけでは、それは他の宗教でもその辺の所をやっぱり仏教なんかでも説いてますけれども、そういう情感がないでしょう。だから実際におかげ頂いてないでしょう。金光大神の場合なんか、云うならば子孫繁盛、家繁盛と云った様なね、そう言うそのおかげに継ながるのです。大宇宙が小宇宙に現れて下さる世界。是は哲学で説明するとそういう言葉に成そうです。だから私は天地の親神様、私共氏子の上にです、所謂神様が氏子任せにになって下さると云う世界があるのです。
 云うなら天地が私共の為に、自由になって下さると云う世界があるのです。そういうおかげを頂き、現すと云う事がぎりぎりの金光様の信心で云うおかげなんです。只お取次を頂いたその事が、成就したとか成就しなかったと云う事じゃない。根本的な所は所謂出産の時、よかり物によかるよりと云う出産と云うのは、女の大厄と言われておるがです、是は良い物が産みなされて來る時、と云う意味に頂かなければならない。その為には様々な神様の働きがある。
 それが愈々出産と云う時にです、流産にならん様なおかげを頂く為にです、どの様なお試しがあっても、びくともせんだけの信心が必要なんです。しかも金光様の御信心は、そういう修行させて頂いておりますと、又今申しま情感です、修行させて頂き乍ら、涙がこぼれる程のものが通うて来る、伝わって來るこちらへ、だからどういう修行させて頂いておっても、それが有難い尊いものになって來るのです。
 そういう修行させて頂き、そういう、云うならば、お縋りしお任せしきった在り方の、いわゆる、そういう状態にならせて頂く時にです、神様が氏子任せになって下さる。私共が只任せる、任せるとこう云う。氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからと云う、その任せると云う事はね、一心に縋ると云う事なんですよ。任せると云うことは。氏子が神様任せならと、任せると云う事は。
 誰にも頼らない縋らないと云う事なんですよ。それにお任せしますと云うとってあれに縋がりこれに頼っとったんでは、本当の縋がる事にならないのです。任せる事にならないのです。任せると云うたらもうそれこそ、ままよと云う心。死んでもままよと云う様な信心度胸をもってお任せする。そこにね、天地が自由になって下さる程のおかげ。それをそんなら合楽の場合なんかは、実際に皆さんに見て貰うたり聞いて貰うたりしながら、日々おかげを受けておるでしょう。
 昨日日田の綾部さんが御礼に出て見えられてから、あちらの娘さんのお婿さんが言われた。岡村さんと、岡村健一郎と云われる。健一郎さんが帰る時にこげな事親先生に申しました。「合楽の先生が出なさる時にはお湿りがありよったっちゃ止むそうですね」とこう云う。云うならば天地が親先生の為に自由になんなさるそうですね。「そうですよ、今度のこちらへお見えになられてもその通りだったでしょうが。」
 「それを僕も実感しよります」親先生方が見えて頂いた時にはあの様な例えば、お天気の上にもおかげを頂いて、さあ翌日はこのおしめりである、成程正しく天地が親先生の為に自由になっておられる事がこう云う物かと云う物と云う体験を目の当たりに見せて頂いたと云う意味の事を云われたとこう云う事です。それを皆さんは日々見ておる訳です。その中にはです、もうそれこそ、いろんな問題は沢山有ると云う事。けれども私はそういう場合にです、決して人に縋らない頼らない。
 物によりかからない、よかり物によからない。只神様一心に頼み申し上げるだけなんです。そういうそんなら生き方をです、させて頂いて初めて天地が私共の為に自由になって下さるのであり、大宇宙が小宇宙に現れて下さる、世界をそこに見る事が出来、其処に住む事が出来るのです。さあ心配事が出来たと云うてウロチョロしよった様な事が何時まで続いたってです、天地が私共に、大天地が小天地と云われる私共の上に現れて下さる筈はないです。宇宙にそういう秩序正しい働きと云う物があっておる。
 天地の中にはそういう一糸乱れぬ秩序、整然たる宇宙があると云う事をです、是はそんなら学問の上にでも分かる訳です。それをそんなら情感を持って教祖は説かれた。情感を持ってその難儀な例えば修行でもです、有難い勿体ないで、例えば私のもう一番食べるに食がない、着るに衣がないと、云った様な時代であってもです、本当に大坪さんそんなに有難いとですかと、例えば人が言うておった様なです。
 是はその神様の親の思いが分かってその親の思いを情感的にこちらがキャッチしていかなかったら、とてもやっていける事ではなかったです。本当に親神様なればこそだなぁ。とそれをそう思わせて頂く働きがあるから、そこは辛抱し抜く事が出来たんです。しかもそういう苦しい中にあっても、有難い勿体ないで辛抱し抜く事が出来たんです。そしてその都度に、なら私は高められておったと云う事になるのです。
 高まられる。いよいよ高められると云う時にウロチョロするんですから、いわゆる只平坦な道だけ歩いておって、高められる筈ありません。同じ何時も失敗して、又平たい所だけを通っておる。是では何時まで経っても、云うならば学問ででもです分かっておると云う。宇宙が小宇宙の私共に現れて下さる世界と云う様なものは、只聞くだけであって、自分の上に頂くと云う事は出来んです。
 だから学問ででも、此処迄は分かる。教祖はそこをです、それこそもう密なる情と申しましょうかねー。もう本当に情感の伴うたお導きを頂く事に依って私共そこを頂いて、そして私共が本当に天地の親神様が私任せになって下さると云う世界に住む事が出来る。ですから、天地にもそうした一糸乱れぬ整然たる、その天地が有り、宇宙があるのですから、そんなら私共もやはり秩序整然たる、所の生活と云う物が求められる訳であります。中々どういう事が、そんなら秩序正しい生活かと云うとです。
 人間で云う例えば、朝何時に起きると云う例えばキチッとした生活と云った様な意味じゃないです。其れを教祖の神様は、実意丁寧神信心と仰ったんです、もう兎に角実意丁寧神信心にならせて頂く事がです、そのまま秩序を乱せない事になるのです。そんなら実意丁寧神信心も又大変云うたら、とてもそげな難しい事はとても出来んごとあるです。そこでそれをもちっとそんなら探求して見るとです、所謂あなた任せの生活とすると云う事なんです。何処にお粗末があるやら御無礼があるやら実際は分からんのだ。
 どこに秩序を乱しておるか破っておるか分からんのだ。けれども愈々の時にお任せすると云う此の心なんです。 教祖様はそこをあそう言う風に説かれた訳です。ままよと十分の徳を受けようと思えば、その十分の徳と云う事がです、云うなら大天地が小天地に現れて下さる。大宇宙が小宇宙に現れて下さる世界。云うならば神様が私共任せになって下さる程しの世界に住む事が許される。
 それを徳者の私は住まわれる場だと云う風に思います。先日西岡さんからの手紙の中に四回の御大祭が仕えられた時に親先生が見えたあの日だけがお天気でした。それは降る事もおかげ、照る事もおかげです。それを例えば秩序を外さないで生きる生き方の上にです、それがなら間違う事もある。降っちゃならん時に降るような場合もある。そういう時に深く反省をさせて貰や、お詫びもさせて貰うて又次の正しい秩序の世界にやらせて頂く事に精進する。私は。それで良いとは決して思わない。
 それは降るときに降るくさいと、云った様なそういう私は安閑とした頂方はしない。降っちゃならん時に降る。それはもう、猛反省させて貰わなきゃいけない。どうでも一つですね、天地の中には、そういう一糸乱れぬ、例えば人間、是は氏子だけの事ではありますまいけれども、人間氏子の上に、特におかげを下さろうとする、天地の働きが一糸乱れず、あっておるんですから、その働きを私共の信心に依って頂き止める。それを神様が、私共任せになって下さる程しの世界です。
 そういうおかげを頂ける道なんです。ですから私共がです、此処に何か、善い物が生まれると云う時にです、よかり物によかったりせずにです、もう一心に神様に任せにお縋りをする。お任せ出来れる信心を、本気でさせて頂くと云う事なんです。天地が私共の為に、自由になって下さる程しの有難い世界。と云う事はあのう天候とかそう言う事だけじゃないのです。私共の幸の条件である所の一切の物がです。
 所謂私任せになって下さるのですから、ああ食べるものが欲しいと云う時には、食べる物が与えられる。ああ飲物が欲しいと云う時には、飲物が与えられる。ああお金がいくらいくら要ると云う時には、それだけの事がちゃんと整えて下さる世界なんですよ。天地が自由になって下さる世界と云うのは。神様が私共任せになって下さると云う世界はその為には私共が秩序正しい、大天地が小天地の私共の上に現れて下さる程しのおかげを頂く為にはです、云うなら大天地の心を心として。
 所謂親神様の思いを思いとして、その思いに添い奉する生き方。それを実意丁寧神信心とこう云う。それをま少し具体的に云うとお任せの生活をすると云う事。所が中々任せ憎い時もある。そこに信心の努力がある。日頃つま坂登り位な坂はずうっと登っておる信心をしとらんとです、いよいよ良い物が生まれる時に必ず他の物によかったりすがったりするのです。そしてお試しに落第して、又元の所を堂々回りをせんならんと云う事になります。もうどんな場合であっても親先生任せだからと。
 こういう信心が本当に身に付いてきたらですね、神様が私共の上に大天地が小天地の上に現れて下さる世界に住む事が出来るおかげが受けられるとこう思うですね。「出産の時よかり物によかるより、神に心任せよかれよ」と。神様に良いと云う答はいろんな意味で出て来ましょう。縋っても出て來るかも知れません。けれども天地が私共の上に、小天地の私共の上に現れて下さる様なおかげになって来ないですよね。
   どうぞ。